南極大陸に命をかけて

土屋 友治(つちや ともじ)
【1878(明治11)~1931(昭和 6) 】

1878(明治11)年、西田川郡加茂村、漁業・土屋与助の三男として生まれました。当時の加茂は天然の港湾としてにぎわい、土屋に大きな影響を与えました。水夫時代から刻苦勉励して海技資格の取得に挑み、遂に甲種二等運転士となり、東洋汽船の外国航路にも高級船員として勤務。1910(明治43) 年、日本で初めての南極探検で「開南丸」(204トン)航海長として32歳の若 さで探検を成功させました。観測船としては小さな開南丸を厳しい氷海の中 を巧みに運転し、探検隊の南極大陸上陸を果たし、1年 7カ月ぶりに無事日本に帰って来ました。加茂水産高校の玄関前に功績を称える胸像があります。


日本海マス流し網漁業企業化に成功

本間 孫四郎(ほんま まごしろう)
【1904(明治37)~1975(昭和50) 】

1904(明治37)年、豊浦村由良(現鶴岡市由良)の漁家、佐藤孫十郎の子とし て生まれ、小学校卒業後、加茂の 本間家の養子となり、漁業に従事します。機船底引き網漁業の創始者として、樺太に渡リ、新漁場の開拓に当た りました。
また、 サバ、イワシ、 ブリのまき網漁法に成功。本県で初めて底定置網を導入し、漁業経営の安定を図りました。
開発した漁法や漁具を公表し、日本の漁業発展に大きく貢献しました。


日本人初北洋漁場開発経営者に

尾形 六郎兵衛(6代目)(おがた ろくろうべえ)
【1861(文久1)~1916(大正 5) 】

鶴岡市加茂の旧家・尾形家の 6代目。尾形家は海運業を営んでいましたが、 5代目が回船問屋を始め、加茂港を拠点に北海道と往来。特に、米、 大山の酒、 海産物などの取引の商売をしていました。
その後、日本人として初めてカムチャッカ、樺太などの北洋で漁場を開発し、サケ、マス、筋子 などで大きな利益をあげ、日本の北洋水産業の先駆けとなりました。


日本の海上旅客輸送の発展に尽力

佐藤 吉蔵(さとう よしぞう)
【1888(明治21)~1929(昭和4)】

金沢に生まれ、苦労して学び努力して仕事を行い、水夫見習い、水夫、舵夫、一等航海土となり、 30代で外国航路船長となりました。
大正時代大型ヨ ーロッパ航路客船「神福丸J(2204トン)の船長として、日本の海上旅客輸送の発展に尽く しました。


発動機船導入し沖合底曳漁業操業水産振興に尽力

菅原 常治(すがわら つねじ)
【1887(明治20)~1973(昭和48)】

1887(明治20)年、加茂港産物問屋の長男として加茂に生まれ、荘内中学を 卒業後家業を継ぎました。
24歳の時、 共同出資で庄内初の発動機船「誠喜丸」を購入し、沖合底曳網漁業を創業し近代漁業の先駆けとなりました。加茂水産高等学校の創立や、「鳥海丸」建造など後継者育成にも力を入れ、加茂漁業協同組合長や県漁業協同組合連合会長なども務め、水産の発展のため一生を捧げました。


漁業開拓に大きな足跡

尾形 六郎兵衛(7代目)(おがた ろくろうべえ)
【1901(明治34)~1973(昭和48)】

16歳の時、父• 6代目尾形六郎兵衛が急死したため、荘内中学卒業と同時に家業の水産業を継ぎ、樺太、千島、北海道の各地に水産会社を創立しました。南方のマグロ漁業や中国南部方面の海洋資源開発にも取り組みました。
県水産業会長や県漁業協同組合連合会長など務めると共に1947(昭和22) 年戦後第1回の参議院議員に当選し、電気通信政務次官を務めました。